*** 自然のベール ーゲル研究の新展開ー
*** *** top *** 物性研究, vol. 93 (2010年2月号) 543-545.
1991年の夏のある日、MIT のドーム前のKillian Court で故田中豊一先生ほか研究室
のメンバーと昼食を取りながら話したことを思い出す。「みんなは知っているか。ノーベル賞のメ
ダルの裏には自然の女神と科学の女神がいて、科学の女神は自然の女神のベールをそっと外して
横顔を覗いている構図になっているんだ。」Killian Court での彼の話は以下のように続いた。「自
然の女神は時々、みずからベールをそっと外してくれる。凡人はただそれを見過ごすだけである
が、優れた科学者はその一瞬を見逃さず、新たなサイエンスを開拓するんだ。我々はその一瞬を
見逃さないよう、日頃から感性を研ぎ澄ませておかねばならない。」
今回、「物性研究」の特集として「ゲル」が取り上げられた。ゲルは古くから身の回りにある
ため、なかなか科学の対象にはならなかった。特に物理の対象としては、系が化学的にも構造的
にも複雑すぎた。しかし、そうしたゲルを物理学の対象として扱えるようにレシピをこしらえた
一人が上述の田中先生である。彼自身、ゲルという自然の女神のベールを外した科学者の一人で
ある。彼が1978年に単著でPhys. Rev. Lett. に著したゲルの体積相転移は、ゲルが不連続な
相転移を示すことを実験的に証明した論文である[1]。この発見自身、凡人なら見過ごしてしまう
現象かもしれない。ところが、この発見には面白いエピソードがある。当初、この体積相転移は
何度追試をしても再現できなかった。やがて、その原因は冷蔵庫で暫くaging したゲルと新たに
合成してすぐ測定したゲルの違いであることに気づく。体積相転移を示したゲルは、冷蔵庫の中
で加水分解という変質を起こし、荷電したゲルになっていたのに対し、新しく作ったゲルではそ
れが起こらず非荷電ゲルのままであったのである。面白い現象を示さないゲルを冷蔵庫で数ヶ月
放置したことによって、自然の女神は姿を少し現し、科学者がそれを見事に捉えた例と言えるだ
ろう。1981年のScientifc American にGels というタイトルで発表した論文には、この加水分
解の重要性が書かれている[2]。同様のことが日本ゴム協会誌の総説にも書かれているが、その中
には、もうひとつ名言が書かれている[3]。いわく、「生物は2つの容器を発明した。一つは膜であ
り、もう一つは高分子の網目、つまり、ゲルである。膜は水を囲い、網目は水を包む。」と。現代
ソフトマター物理学に大きく寄与している「膜」と「ゲル」と生物の機能との関係をみごとに喝
破している。
田中先生の体積相転移の発見が世界的なゲル研究の爆発的発展となり、1980年代のゲルセンサー・ゲルアクチュエーターブーム、1990年代のインテリジェントゲルを生んだ。21
世紀に入り、ゲル研究の関心は如何に強く良く伸びるゲルをつくるかに向いてきた。それは、さ
まざまな特性をもつ機能性ゲルを開発してもそのゲルが軟らかすぎたり脆ければ用途に限りがあ
るからである。幸い、2002年からたてつづけに環動ゲル、ダブルネットワークゲル、ナノコ
ンポジットゲル、テトラPEGゲル、が開発された。これらに共通することと言えば、強靱であ
り良く伸びるといった力学物性においていずれも顕著な特性を持っていることである。今回の企
画では、これらに液晶ゲルを加えて、新規機能性ゲルの紹介してもらうこととした。詳細はそれ
ぞれの開発者による解説に譲り、プロフィールを以下に示そう。
環動ゲルはポリエチレングリコールのような線状高分子(ひも)とシクロデキストリンのよ
うな環状低分子化合物(輪っか)からなる。輪っかにひもを通したあと、ひもの両端を止め、輪っ
かを2つずつくっつけることにより、輪っかがひもの上をスライドできる高分子からなる網をつ
くることができた。この環動ゲルは可動架橋点をもつという、従来にない全く新しいゲルであり、
Nature Materials にも紹介された[4]。基礎、応用の両面から著しい展開が進行している。ダブル
ネットワークゲルは、ゲルを2段で合成する。第1段は荷電をもつゲルで脆いゲルであるが、そ
のゲルを媒体として第2段で軟らかいゲルを合成する。この手法で、非常に強靱かつ延伸性に富
むゲルが得られている。ナノコンポジットゲルは、その名の通り、有機高分子と無機粘土鉱物(ク
レイ)のコンポジットである。クレイの量を調節することにより、軟らかいゲルから強靱なゲル
まで自由に調製できる。また、クレイ濃度を高くしてもゲルの透明性は失われないなどの特性を
もっている。テトラPEGゲルは、2種の異なる官能基を末端に持つPEG分子をカップリング
反応させることによって出来るゲルで、ダイアモンド骨格をもつゲルである。網目構造の完成度
が高く優れた力学物性を示す。液晶ゲルはゲルを構成する高分子鎖あるいは媒体にメソゲンを導
入したゲルであり、その組み合わせにより、さまざまな興味ある物性が液晶の相転移とともに発
現する。
直鎖状高分子の世界において、1956年にMichael Szwarc がアニオン重合を発見したこと
により、単一分子量をもつ合成高分子が次々と合成されるようになり、高分子物理学、溶液論、高
分子レオロジーなどが飛躍的に発展した。Szwarc はこの業績により、第7回京都賞(1991年)
を受賞している。その受賞理由は「『リビング重合』の発見によって、高分子を先端技術に不可欠
な機能材料として発展させる大きな道筋を拓くとともに、高分子化学者のみならず多くの研究者・
技術者に、高分子材料の設計と合成のための画期的な方法を与え、材料科学における高分子材料の
研究開発と発展に多大な貢献をした。」であった。deGennes らによって発展した高分子のスケー
ル理論も土井・Edwards 理論も分子量という基本変数があってのことである。
今回の企画で取り上げられた5種のゲルは、いずれも個性豊かで分子設計の哲学から合成法
まで全く異なるゲルである。ここでもゲルという自然の女神はそっと自らのベールを外して、科
学者にその新しい側面を見せてくれたのだとおもう。そして、その科学者はそこで得たひらめきを
見事に新規ゲルとして具現化した。筆者自身、それらのゲルのいくつかの謎解きに関わることが
できたことを感謝したい。ゲル研究の目標のひとつに理想高分子網目の実現がある。理想高分子網目とは架橋点間の分子量(単分散)、架橋点の腕の数(官能基数)がそれぞれ単一で、欠陥も絡
み合い(trapped entanglement)もない網目を指す。テトラPEGゲルの発見は、Szwarc によっ
てなされた単一分子量をもつ合成高分子合成のゲル版である。新しいパラダイムの起爆剤となる
ことを期待したい。
参考文献
[1] T. Tanaka, Phys. Rev. Lett. 40 (1978), 820.
[2] T. Tanaka, Sci. Am. 244 (1981), 110.
[3] 田中豊一,ゴム協会誌5 (1996), 123.
[4] S. Granick and M. Rubinstein, Nature Mater. 3 (2004), 586.
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