学園だより No.70 (1992.9.20)

留学雑感

助教授(繊維学部高分子学科)柴山 充弘

 貿易赤字がますます増大し、財政破綻を招きつつあるアメリカ。こんな情勢下、一年間の海外研修の機会を得て、マサチューセッツ工科大学(MIT)に学んだ。長期海外留学としては8年ぶりの2度目であり、ところも同じくマサチューセッツ州ということで、以前の留学と同じ青写真を用意していた。しかし、懐かしい風景や人々の心の中に起こった変化がモアレ模様のように顕在化して感じられた留学となった。以下、それらを気の向くままに書き連ねるとする。

<社会>

 第一に、国勢が大きく変化したことが挙げられる。8年前は、アメリカ経済もまだ健全で強いアメリカであったように思う。為替レートは$1=250円で、日本からの貧乏研究員には少々きつく、「日本のクレジットカードでお買い物」という訳にはなかなかいかなかった。在米日本人も目立つほどの数ではなかったので、小さな町の中ではほとんどの日本人と友達になった。今回、強い円を反映した日本からの旅行者や滞在者の多さにまず驚かされた。ボストンという大都市の近郊に住んだことも一つの理由ではあるが、英語を話さないで生活できる環境が出来つつある。日本人店員が応対する日本食料品店には懐かしい香りのする食料品をはじめ、殆ど時差なく送られてくる新聞、月遅れの少年雑誌や週刊誌、それに日本のドラマなどのレンタルビデオなどがところ狭しと陳列されている。隣には寿司屋、うどん屋、はたまた日本風喫茶店まであり、さながら日本人コロニーを見る思いがした。これらの店が地域に住む日本人に利便性という点で多大の貢献をしていることについては異論ないが、この日本人コロニーの閉鎖性、排他性を感じたのは小生の家族だけだろうか。長時間店の人と話をしながら、だらだらと時を過ごす学生風の客によく会った。彼らの多くは店の顧客であり、暇をつぶしながら店の前を通る人たちをしげしげと観察している。一方では、これらの店は日本人駐在員たちの奥様族の社交の場ともなっている。この種の人たちには「現地の人たちとの交流をもたず、自分たちだけの殻の中に閉じこもり、ひたすら“冬眠生活”をして晴れて帰国出来る日を待っている人たちも多い」と書いてあるのを新聞で読んだ。

<交友>

 今回の留学での実り多い収穫の一つは旧友たちとの再会であった。お互い、家族の新しいメンバーを加えての再会は月日の流れの速さを実感させるに十分であったが、時空を越えた変わらぬ友情は、ますます絆を強くし、子供たちの世代にも受け継がれていくのを実感した。また新しい友人との出会いは、交流を一層幅広く深いものにし、大変有意義なものとなった。子供たちも多くの友達との間で不自由のない会話を交わし、日本の紹介や日米の比較などを語り、ミニ外交官としての役目をしっかり果たしてくれた。

<研究>

 今回の留学では、ゲルの相転移という研究を通していろいろなことを学ぶことが出来た。中性子という手法を用いた研究を予定していたので、装置の確保(ビームタイムの予約)が実験の第一歩であった。中性子散乱発生施設はアメリカ広しと言えども、ロスアラモス、オークリッジ、ブルックヘブン、アルゴンヌ国立研究所など数カ所しかない。しかもそのいずれも多くの研究を抱えているため、ビームタイムの確保は難しく、一年間に数日のビームタイムがもらえれば上出来というのが相場であった。従って、一年という期限付きで研究している者にとっては、実験は一発勝負的な色彩が強く、一度実験に失敗したからといって再実験が許されるものではなかった。このような状況では、研究の独自性や新規性を維持する一方、あらゆる場合を想定した、二段、三段構えの実験計画を練ってそれを忠実に実行する必要があった。一方、実験中には予期せぬ結果が現れてくることも多く、それに対応して柔軟に実験計画の修正をリアルタイムで行うことも必要であった。

 このような状況下、研究は中性子散乱発生施設との直接交渉から始まった。過去に共同研究をした経緯があることから、メリーランド州ゲイサスバーグにある国立標準技術研究所(NIST)にある中性子散乱研究施設で実験を行うべく、先方の研究者との入念な打ち合わせを行った。ボストンでの最初の半年間は、これらビームの予約や予備実験、試料調製などであっという間に暮れてしまった。本格的な実験は9月から行い、全部で3度中性子散乱実験を行うことが出来た。毎回膨大なデータを収集し、その後の1か月余りは解析に夜昼となくまた週末もなく追われることを繰り返した。年が明け、1月に3度目の実験を終えると帰国準備と論文執筆が待っていた。帰国してしまうと共同研究者であるMITのT教授とのディスカッションが十分に出来なくなるし、大学での仕事で忙しくなることは必至であったので、極力、留学中に論文を完成させるつもりで努力した。その甲斐あってか帰国数日前に、数報の論文と100ページにわたる総説論文を書き上げることが出来、感無量でアメリカを後にすることが出来た。

<MIT>

 留学したばかりのまだ暇な頃、渡米直前に生協で購入し持参した寺田寅彦全集を通勤のバスの中で愛読した。過去の経験から、アメリカ滞在中にはときどき日本語の書物が無性に読みたくなるという衝動を覚えることを知っていたからである。岩波文庫で全5巻、軽量なうえ分量的にも内容的にも小生の欲望を満たすには格好の読み物であった。この全集を海外で読むというのもなかなか味のあるものであった。大正から昭和初期にかけての随筆中の、時代を超越した真理や寅彦の科学者としての提言に思わず朱を入れ、何度も読み返しもした。また文学者としての寅彦から、日本文学、特に俳句の深遠さを学び結果的に日本の文化や風土が日本にいるとき以上に懐かしく感じられた。東大物理学教授としての寺田寅彦は物理学の何たるかを、ある時は身近な例をもって示し、またある時はギリシャ時代の先哲の言葉を借りて、我々に語りかけてくれている。幾多の含蓄のある言葉の中に、“量的と質的と統計的と”の中の一節、“第一義たる質的発見は一度、しかしてただ一度選ばれたる人によってのみなされる。質的に間違った仮定の上に量的には正しい考究をいくら積み上げても科学の進歩には反古紙しか貢献しないが、質的に新しいものの把握は量的に誤っていても科学の歩みに一大飛躍を与えるものである。ダイアモンドを掘り出せば加工は後から出来るが、ガラスは磨いても宝石にはならないのである。”がある。量的情報が氾濫する今日、我々は彼のこの言葉を当時よりも厳粛に受け止める必要がある。

 ある日、東大出身であるT教授に「先生は寺田寅彦に似ていますね。」と言ったところ、「そう思うかい。実は、恩師の久保先生にもそう言われたことがあるんだ。」と言われた。そして、「寺彦は物理学者としては成功しなかったが、ボクは違う。」と言われたとき、実績に裏付けられたT教授の自信をまのあたりに見る思いがした。

 MITは知る人ぞ知る天下の名門大学である。この大学では教授は勿論、学生に至るまである種のエリート意識を強く持っている。このエリート意識が“第一義たる質的発見”を産むための駆動力になっている。さらに、エリート集団の利点として異なる専門分野の学者の意見を容易に得る事ができる環境が整っているため、無駄な時間や労力を費やすことなく、研究の軌道修正と真理探究が有機的に行われるシステムになっている。我がKITにおいてもこのような体制、すなわち、忌憚のない相互の意見交換と絶え間ない自己啓蒙、それに研究環境のより一層の充実をはかることが肝要である。これに向けて微力ではあるが努力することが今回の留学を許していただいた大学関係者への最善の恩返しと考える。

 関係諸兄には一年間の留学の間、さまざまなご面倒をおかけしたことをお詫びし、またこの紙面をお借りしてここにお礼申し上げる次第である。